新聞に掲載されていた、光野桃さんによる美容&ファッションエッセイ・シリーズで、とても賛同出来る回があったので、ご紹介します。
アンチ・アンチ・エイジング
「「やっぱり若く見られたい・・・ 」
コマーシャルの中で女優が呟く。世はアンチ・エイジング真っ盛り。テレビの特集番組でも日本の美容熱が世界的な経済効果を生んでいる、といった内容が放送されて、この「全員同じ方向を向く習性」といった日本のエネルギーはすごいかも、と妙に感心してしまう。
しかしどうなのだろう。わたしは少し懐疑的な気持ちにもなる。確かに日本人の肌の美しさは世界一だ。外国で美容院に行くとたいていほめられる。嬉しくないわけではない。けれど、肌のきめ細やかさや若々しさが、日本人特有の「幼さ」につながっているような気もして、なんとなくがっかりする気持ちにもなる。
イタリアに住んでいるとき、幾度となくイタリア女性の美容観について取材依頼を受けた。
そのたびに、とても困った。ともかく素敵だなと思えるマダムに会いに行って話しを聞くのだが、予想通りだれもが「自然でいることが好きなんです」と答えるのである。
これでは記事にならない。日本の読者は努力の方法を訊きたいのだ。独自のパックやマッサージ法、オリジナルな化粧品作り、顔面体操といったものを聞き出してほしい、と編集部からも言われている。しかし、たいていは食生活に気をつけて、運動をし、太らないようにするだけ、といった言葉が返ってくる。
それ以上はもう、わたしも訊く気持ちにならない。なぜなら、皺もシミもあるけれど、彼女たちがとても魅力的に見えるからだ。肌は日本人よりきれいではないかもしれないが、そこに生きてきた時間と深みがしっかり刻まれ、人間らしい魅力に溢れている。肌に「包容力」があるのである。
それこそが若くない女の魅力というものではないか、とわたしはつくづく思うのだった。
確かに皺の1本もないぴかぴかつるつるの肌は、モノとして見たときはきれいかもしれない。けれど、そんな肌を目にすると、なぜか弾かれてしまうような気がしてならない。近寄りがたい威厳、というものとは違う、他者を排除して自分だけの世界に閉じこもる排他的なものを感じてしまう。美しい壁が、目の前に立ちはだかっているように思えるのだ。
肌だけ若い、というのはそんなにいいことなのだろうか。それはむしろ奇異なことではないのか。いや、肌だけでなく全身若々しくあろうとして何が悪い、という声が聞こえてくるが、時間に逆らい、不自然なまでに若さを保とうとする理由は何か、そこに自然ではないものを感じとってしまうから、なかなか素直に賛同できないのである。
自然ではないもの、とは「自分に対する卑下」の感情だ。今の日本人のアンチ・エイジングブームの根底に、女たちの気持ちの中に、それを感じないではいられない。
肌とは、その人の外側に現れいでている「言葉」だと思う。自分に対してイエスという気持ちで生きたとき、ひとは自然体の肌を手に入れることができるのではないだろうか。そのとき、肌は壁でなく、美しいコミュニケーションをつむぎ始める。」
たしかに、しっかりマスコミの扇動にノッかっちゃってる感のある中高年・・・。ってどうかと思うときありますよね。若い娘のプチ整形ブームみたいなノリに見えないこともないし。
光野さんのエッセイは、わたし個人的には共感できない内容のときもありますが(とくに、ファッションについては)、今回に至っては基本ほぼ同意見です。
(自然でないもの・・・)に対しては、少々ニュアンス的に若干ズレみたいなの感じますが、
(自分だけの世界に閉じこもる排他的なものを感じてしまう。・・・)(そのとき、肌は壁ではなく、美しいコミュニケーションをつむぎ始める。)あたりの表現は、とても共感できます。
ひとりの人間としてのパーソナルなバランス観みたいな、、無視できない問題を指摘しているということもありますし、
とかく、見た目(外見)というものは肌ひとつとっても、”良くも悪くもそのひと自身を表現する、”というのが私の考えです。情報発信してるんですよね。。。
ですから、はなしが少々飛躍しますがパーソナルメイクさせてもらう場合やスタイリングさせてもらう際、わたしの場合’旬のスタイルかどうか’は2番目以降の問題で、まず第一にご本人の魅力をひきたてつつ汎用性あるメイクやコーディネートが得意にできるよう、日々研究や訓練しています。おすすめする基本パターンは、パーソナルなバランス感覚をひきだす、トータルコーディネートがモットーですね。
そのさい、一番忌み嫌うのは、やはり「排他的な美意識の表現」ですよね。モノとしてうつくし・・・っていうのは、なんだかもの悲しいものですね。
最近のコメント